日本橋から中山道を歩き、各宿場(跡)の写真を中心に掲載いたします。

旧中山道に残っている「本陣・脇本陣(跡)」「茶屋本陣」や「一里塚」「史跡」など気になったものを掲載いたします。

板橋宿

北側から板橋お地名の由来になった橋「板橋」を超えると板橋宿。


大宮宿

アーケードの中にある店の脇にひっそりと、当時からの井戸水の横に「大宮本陣」の一つの案内板が立っている。


北本宿

本宿説明板と北本宿の碑。


蕨宿

岡田加兵衛の本陣。向かいには岡田五郎兵衛の本陣があり、この2つが蕨宿の本陣であった。


上尾宿

上尾駅近くの「氷川鍬神社」の前の歩道に「上尾宿本陣・脇本陣」の説明案内板がある。


鴻巣宿

現在は歩道に「鴻巣本陣跡」という標石がたっているだけである。


浦和宿

公園の中の「明治天皇行在所跡」の碑の横に「浦和宿本陣跡」の案内板が設置されている。


桶川宿

桶川宿本陣遺構(写真)の隣の民家と斜め前に中山道宿場館が脇本陣であった。


箕田の追分



熊谷宿

熊谷宿の本陣跡と新島一里塚

深谷宿

深谷宿の東口と西口の「常夜灯」

と街中の「菊泉」の店舗と煙突

本庄宿と「蔵の街の看板」

本庄宿は、本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠70軒と中山道でも最大の規模の宿場だった。



新町宿

新町宿の大きな灯篭と「小林本陣跡」、「高札場」の案内看板


(神流川古戦場)

「神流川古戦場跡」

本能寺の変を知った信長の家臣滝川一益の2万の軍は、機に乗じて攻め入ってきた北条氏邦の5万の軍勢と、この地で激突した。


(勝場の一里塚)

「勝場の一里塚」

日本橋から23里目の一里塚



倉賀野宿              (脇本陣跡と高札場跡)

須賀庄脇本陣跡は道路に面した場所に碑が立っていた。


高崎宿

諸大名が御城下での宿泊を敬遠したため、高崎宿には、本陣や脇本陣が置かれていなかった。

写真は、旧山田源漆器店。


上豊岡の茶屋本陣

茶屋本陣の「上段の間」と「次の間」



安中宿            安中藩郡奉行役宅と本陣跡

本陣1、脇本陣2、旅籠17と、小さな宿場であった


碓氷関所跡

「入り鉄砲に出女」の取締りを主とした要所で、門柱や門扉は当時使用されていたもので、総ケヤキ材の要所に金具を用いた堅固なものである。

通行人が手をついて手形を出した「おじぎ石」がある。


軽井沢宿

「二手橋」を渡り、「軽井沢ショー記念礼拝堂」を過ぎ、「芭蕉句碑」(写真右)を左に見て、「軽井沢宿(旧軽井沢)」に入る。現在は観光地として綺麗に整備され、宿場の雰囲気はあまりない。

本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠21軒有ったらしいが、「アートカフェ 脇本陣 江戸屋」が名を残している。


御代田の一里塚

追分宿から小田井宿の中間に「御代田の一里塚」が残っている。現在の道から少し入った場所に一里塚があり、写真左の狭いあぜ道のような道が旧中山道だった。


塩名田宿

本陣・問屋場が宿のほぼ中心部にあった。

塩名田の「河原宿」には、情緒豊かな三階建て住居群が残っている。


松井田宿・松井田城址

松井田には、本陣も脇本陣も残っていない。

北条流の典型的な中世の山城、松井田城址があった。

西松井田駅の近くの旧中山道沿いの竹やぶの中にひっそりと新堀一里塚の案内板がある。


坂本宿

坂本宿は、両側に本陣・脇本陣・旅籠・商家など160軒ほどで賑わっていた当時がしのばれる。


沓掛宿

中軽井沢の沓掛宿は、それらしい雰囲気がほとんど残っていない。追分宿との中間の遠近の里に「遠近宮(おちこちみや)」がある。「信濃なる浅間の岳に立つけぶり、をちこちの人の見やはとがめぬ」と在原業平が詠んだ歌にちなんで「在原業平遠近宮」と浅間さんが改められたとのこと。


小田井宿

小田井宿は、多くの建物が当時を偲ばせる。「本陣跡」や「問屋跡」も雰囲気がある。


八幡宿

集落に入ると最初に地名の由来となった1491年に建立された八幡宮がある。

中心部に皇女和宮が泊まった八幡本陣跡がある。


五科の茶屋本陣            (お西、お東)

信越本線沿いの「松井田五科」に、「五科村高札所跡」の立札があり、その前の道の信越本線を超えた場所に「五科の茶屋本陣 お西・お東」がある。


坂本宿~(碓氷峠)~軽井沢宿

坂本宿を過ぎると山道の急坂が続き、尾根に入ってようやく「中山道」らしい道が続く。尾根の道は当時がしのばれる史跡も沢山ある。そして子持山を過ぎると厳しい登り坂が碓氷峠まで続いている。碓氷峠を過ぎると今度は軽井沢宿までは、急な下り坂が続く。


追分宿

追分宿の高札場跡

追分枡形の茶屋


岩村田宿

佐久市の中心部の一つである「岩村田宿」はすっかり都会化しており、旧街道の雰囲気はあまりない。